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ジャン・ラーツ 

 

 

伝記

 

1932年10月15日にタルトゥで生まれ、12月25日にタリンで亡くなりました。

 

 

1960年代、反ロマンティックに揺らめくアクティブな音楽形式がエストニアン音楽界を異風で包み込んだ。そんなユニークなスタイルを築きあげた勇者、その名もジャン・ラーツ。ラーツはピアノをタルツ音楽高校で学んだ後、タリン音楽院にてMart SaarとHeino Ellerに作曲を師事する。その後、エストニアラジオ放送局にてレコーディングエンジニアとして働いた後、エストニア作曲連合の議長に就任する。1990年までエストニア音楽アカデミーで作曲を教え、弟子の中にはRaimo Kangro, Erkki-Sven, Rauno Remme, Tonu Korvits, Tonis Kaumann, Timo Steinerなどがいる。

 

音楽的特長としては、彼の簡明な作曲形式は万華鏡のように数多くの細部を一体化させるようないわゆる糊の役割を果たしており、その急速に変化するコントラストのバランスを全体的に対称化(シンメトリー)させることで絶妙なニュアンスを担わせているのだ。時折、詩的でネオクラシックな形式も作品にみられるが、一般的にはそれは一種の音楽的特徴には値しない。

 

むしろ、ラーツの遊び心にとんだスタイルは、ちょっとしたユーモアや自身への皮肉がどっぷりと滲み出ている。というのも1950年代において国内的に主流であったエストニア音楽の背景にラーツの軽快なリズムや無調を含んだ彼自身のオリジナル音楽が多大な影響を与えているからだ。

 

 律動するリズムと角ばったメロディが印象的なラーツの交響曲第六番(1967年)第七番が作曲されたのもその時期であるだろう。この二作品では「スナップ技術」ともいわれる作曲法が革新的な音楽的発展をもたらした。いわゆる、内部要素に「変化」が生じたのだ。それはモザイクのようなテクスチュアであり、民俗音楽などのさまざまな音楽形式との関連性、またはそれらを引用することにより新たにモチーフが生まれ、結果、急速に飛び交う文体的構造を盛り上げていったと表しても過言ではない。1980年代に入ると、彼の作品はより格言的になり、ミニマリズムの影響を受けたスタイルが確立されるようになる。そのようなラーツの斬新なスタイルはおおむね、特に協奏曲(バイオリン、ピアノ、ピアノ連弾、チェロ、ギターのためになど)や室内楽の作品で確認することができるであろう。

 

 

© EMIC 2011 (translated by Megumi Shibata)

 

 

Jaan Rääts  © Peeter Sirge

Jaan RÄÄTS 80th Birthday Jubilee Concert

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